「 テレフォンセックス 」一覧

関係性の網目としてのテレフォンセックス

関係性の網目としてのテレフォンセックス

新しいテレフォンセックスのプランを考えましたので、今回はその新たなテレフォンセックスの方法と、そのテレフォンセックスから導き出されうる快楽についての考察などを書いていこうと考えております。「新しいテレフォンセックス」とはいいましたが、私が寡聞にして知らないだけであって、私が構想した「新しいテレフォンセックス」は、すでに実践されている「使い古されたテレフォンセックス」であり、「ポピュラーなテレフォンセックス」としてテレフォンセックスプレイヤーたちの間で定着し、愛されているプレイである可能性もあります。その場合は、どうか、ご寛恕いただければ幸いでございます。

テレフォンセックスをするバルト

テレフォンセックスをするバルト

テレフォンセックスをプレイするにあたって、最も重要な要素の一つとして「声の肌理」というものが挙げられるでしょう。というより、極論を言うのであれば、「声の肌理」がないテレフォンセックスにはそもそも「快楽」が発生することがない、と断言してもよいのではないか、と私は考えています。

テレフォンセックスを使い果たして

テレフォンセックスを使い果たして

テレフォンセックスによるエクスタシーの体験が、テレフォンセックスプレイヤーの内部で神秘体験として体験されるのである以上、そんなテレフォンセックスという孤独な体験について語ることや書くことはおよそ不可能であるということになるでしょう。テレフォンセックスについて、少し距離をおいた場所から俯瞰するように語ること、テレフォンセックスを外側からまわりこむようにして分析することは可能かもしれません。テレフォンセックスプレイヤーがなぜテレフォンセックスに耽溺するのか、というところから、それぞれのプレイヤーを精神分析の患者として扱うような語り口もおそらく可能でしょう。

テレフォンセックスの涙

テレフォンセックスの涙

テレフォンセックスを通してついにエクスタシーを迎える瞬間、テレフォンセックスという特殊な性行為によってのみ可能な快楽の海のなかに投げ込まれたテレフォンセックスプレイヤーが全身的な恍惚とともに引き受けることになる体験は、ある種の神秘家や宗教家が体験するような「神秘体験」に近づくのかもしれません。無神論的な「快楽」の貫徹によってその体験の質が「神秘体験」にも接近しうるテレフォンセックス特有の性的な体験は、「宗教」や「信仰」、「神」などといったものを媒介せずにもたらされる、ということにその大きな特徴を持っているといえるでしょう。テレフォンセックスプレイヤーは、16世紀スペインの女性神秘家であるアビラの聖テレサに匹敵するような体験をする可能性を「テレフォンセックス」によって与えられています。

テレフォンセックス言文一致運動②―根源の彼方に―

テレフォンセックス言文一致運動②―根源の彼方に―

ここまで考えてきますと、「『テレフォンセックスのように書く』ことによってテキストを創出する」ということから考え始めたことが、そもそも、「テレフォンセックス言文一致運動」という言葉から導き出された「最初の思考」の失敗の原因だった、ということがようやくわかってくるわけです。すると、「テレフォンセックスのように書く」のではなく、「書くようにしてテレフォンセックスをする」ことによって「テレフォンセックスの創出」がなされ、「書かれた言葉」と「話された言葉」の衝突が「テレフォンセックス」の空間内に生じ、その異なる言葉がぶつかりあう地点から「テレフォンセックス言文一致運動」と呼べる営みがついに開始されることになるのではないか、という構図が見えてきます。

テレフォンセックス言文一致運動①

テレフォンセックス言文一致運動①

「テレフォンセックス言文一致運動」の可能性について考えていました。 「テレフォンセックス」と「言文一致運動」というものの組み合わせについて考えていく上で、まず最初にアイデアとして出てくるのは「テレフォンセックスに興じる男女の音源をそのままテキスト起こしする」という方法になるのかもしれません。しかし、この安直な方法によって生み出されるテキストによっては、おそらく「テレフォンセックス言文一致運動」と呼べる運動が始まることはまずないのではないか、と思われます。「文語体から口語体への移行」を目的としていた、明治時代の本来の「言文一致運動」の見地からしても、そのように思われます。