テレフォンセックスをプレイする人間は、テレフォンセックスを通して、みずからの精神が駱駝から獅子へ、そして、獅子から小児へと変化していくプロセスに身を置くことになります。
テレフォンセックスをプレイする直前の段階は、テレフォンセックスというものをどのようにプレイしたらいいかどころか、テレフォンセックスという生き方があることを知ってすらいませんし、テレフォンセックスを通した精神の解放も知りませんから、重荷を背負ったまま砂漠をひたすら沈黙して歩く「駱駝」のフェイズにとどまっている状態といえます。
もちろん、テレフォンセックスの快楽を知ることのない「駱駝」としての諦観に満ちた生き方が悪いといっているのではありませんし、おそらく、ほとんどの人はテレフォンセックスをプレイしない「駱駝」として一生を終えることになるでしょう。
むしろ、「快楽の解放」や「創造」をなにか悪いことのように感じて抑圧してしまい、重荷を背負いながらひたすら歩き続ける、という「駱駝」の生き方は、テレフォンセックスをしている人間より、表面的には立派な生き方にうつることは間違いありません。
しかし、テレフォンセックスをプレイしようという意志を持つとき、テレフォンセックスプレイヤーの眼の前には、「駱駝」ではない精神が立ち現れてきます。
テレフォンセックスをプレイしはじめる初期の段階から、テレフォンセックスのコツをつかんでわがものにしていく中期以降の段階においては、テレフォンセックスプレイヤーは「獅子」のフェイズに突入するのです。
テレフォンセックス、生成、肯定
獅子のフェイズにおいては、人はテレフォンセックスという生成の時間、創造行為を通して、精神の自由を獲得しようとするのですし、それまで人間らしく振る舞うための義務として与えられていたことに、テレフォンセックスという獣じみたプレイを通して大いなる「否」を突きつけもします。
テレフォンセックスを開始し「獅子」の段階に突入した人間は、やがて、テレフォンセックスという生成による創造行為を通して世界中のあらゆるものを「然り」と受け入れながら肯定する、遊戯と忘却と無垢の運動体である「小児」の段階へと歩を進めることになります。
その「肯定」の表情は、テレフォンセックスによる快楽がエクスタシーに到達したときの表情と重なりあうものになるでしょう。
もちろん、すべてのテレフォンセックスプレイヤーがこの駱駝→獅子→小児という三段階のプロセスを経験するというわけではありません。
特に「小児」にいたる道は、理念だけが先行していて、そこに実際に到達することは非常に難しく、およそ実現不能に思われるほどの困難が立ちはだかっています。
いままさにテレフォンセックスをしているその瞬間のすべてを、何万回生まれ変わったとしてもまた同じ瞬間として反復したい、とまるごと肯定できるような覚悟を決めて命がけでテレフォンセックスをプレイすること。
テレフォンセックスを通して「永遠」を妊娠させるようなプレイスタイルが確立できたならば、テレフォンセックスをする人の精神は、ついに「小児」の段階へと足を踏みいれることになるのかもしれません。