テレフォンセックスをするバルト

テレフォンセックスをするバルト

テレフォンセックスをプレイするにあたって、最も重要な要素の一つとして「声の肌理」というものが挙げられるでしょう。

というより、極論を言うのであれば、「声の肌理」がないテレフォンセックスにはそもそも「快楽」が発生することがない、と断言してもよいのではないか、と私は考えています。

「声」と「言葉」のみで性行為を遂行しなければならないために「肉体的な接触がない」とされるテレフォンセックスですが、かといって、テレフォンセックスというプレイには「身体性」や「接触」がまるでないというわけではありません。

むしろ、テレフォンセックスをプレイするにあたっては、セックスのような「肉体的な接触」でもたらされる以上の身体性、あるいは、「肉体的な接触」によってもたらされるのとは違う身体性が強く要求されます。

「声」と「言葉」のみで行うテレフォンセックスという場においては、「声」と「言葉」が衝突し、「摩擦」が起こります。

この「声と言語活動の摩擦」、声と言葉が衝突してこすれあう「接触」のなまなましい音を、受話器越しに全身で聴くことによって、テレフォンセックス特有の身体性と快楽が発生することになるわけです。

テレフォンセックスとは、「音」と「言葉」がエロティックに交差する場に他なりません。そのエロティックな交差のなかで聞き取れるものこそが「声の肌理」という要素になるでしょう。

そして、そのエロティックな交差によって生じる「声の肌理」が拒むものは、平板化された引っかかる部分のない声、明晰に意味を伝えるためだけに用いられる声に他なりません。

テレフォンセックスにおける「身体性」は、テレフォンセックスをプレイする男女のざらざらとした触り心地に満ちた、声と言葉の摩擦によって生じる「声の肌理」によって感受されます。

テレフォンセックスの場面における「言葉」は、意味伝達のための「言葉」ではありません。テレフォンセックスの快楽を高めていくために用いられるテレフォンセックス言語という「言葉」は、「歌」において用いられる「言葉」の質に近しいのではないかと私は考えております。

「テレフォンセックス」と「歌」

「歌」は、「音」と「言語活動」が衝突する地点に発生する「声の肌理」の触り心地を五感で快楽的に堪能することにその鑑賞の醍醐味があります。

「歌を歌う」、ということは、衝突と摩擦によって生じる歌の言葉を書く(語る)、という行為に近いのですし、「歌を聴く」ということについても、言わずもがな、衝突と摩擦の音によって語られた意味伝達のためではないテクストを読む、ということです。

テレフォンセックスが「声」と「言葉」による衝突と摩擦の「声の肌理」によって「快楽」を得る性行為である以上、「歌を歌うこと」や「歌を聴くこと」とほぼ同じ快楽原則を持っている。これに関しては、疑う余地を見出すことができないのではないか、と私は考えています。

「テレフォンセックス」の「快楽」を決定的にするのが、テレフォンセックスの完成度を高めることや、クセをなくしていくという意味でのテクニックの上達、「意味」の伝達などではない、という点においても、「歌」との類似が見られるように思われます。

完成度を高めていく上ではノイズとなってしまうような「肌理」、テクニックを高めようとするばかりに平板化していき消えていくことになる「肌理」、そして「意味」を伝えることを目的としない「言葉」を「声」が放つことによって滲み出る「肌理」。こういった「身体の泡立ち」や「音の粒」たちが、テレフォンセックスの快楽や官能性を支えているのです。

当ブログでは、「書くようにするテレフォンセックス/テレフォンセックスをするように書く」ということの重要性についてたびたび触れてきましたが、それを「声の肌理」と「歌(というテクスト)」という点から考えていくことは、おそらく無駄ではないように思います。

少しばかり「声の肌理」からは離れることになるかもしれませんが、「聴覚器官によって伝達された感覚はその印象が何より強烈であるがゆえに最もわれわれの五感を快く刺激する」というサド公爵の『ソドム120日』の一節を思い出してみるのも、テレフォンセックスの快楽について考えていく上で役に立つかもしれません。

『ソドム120日』においては、「聴覚的快楽」を何よりも重要視した四人の放蕩者たちが、性にまつわる倒錯したエピソードを「語り女」たちに語らせ、それを「聞く」ことによって性的欲求を強めていくことになります。

この「聴覚的快楽」と「語る/書く/読む(聴く)」ことによって導かれる「欲望の喚起」の領域と、「声の肌理」の領域が重なる交差点から、「書くようにするテレフォンセックス/テレフォンセックスのように書く」ということから得られる「快楽」についての今後の示唆を得られるようにも思います。

それらの「書くようにするテレフォンセックス/テレフォンセックスのように書く」についての思考は、やがて「歌うようにするテレフォンセックス」や「踊るようにするテレフォンセックス」、「詩歌としてのテレフォンセックス」という領域の思考と共鳴しあうことにもなるだろう、と私は考えています。