テレフォンセックスを使い果たして

テレフォンセックスを使い果たして

テレフォンセックスによるエクスタシーの体験が、テレフォンセックスプレイヤーの内部で神秘体験として体験されるのである以上、そんなテレフォンセックスという孤独な体験について語ることや書くことはおよそ不可能であるということになるでしょう。

テレフォンセックスについて、少し距離をおいた場所から俯瞰するように語ること、テレフォンセックスを外側からまわりこむようにして分析することは可能かもしれません。テレフォンセックスプレイヤーがなぜテレフォンセックスに耽溺するのか、というところから、それぞれのプレイヤーを精神分析の患者として扱うような語り口もおそらく可能でしょう。

ですが、テレフォンセックスという瞬間ごとに生成されていく運動、テレフォンセックスプレイヤーがテレフォンセックスのプレイ中にメエルシュトレエムの大渦に呑まれる以上の「快楽の渦中」に巻き込まれるその体験については、およそ、何も書くことができないと言わざるをえないでしょう。

テレフォンセックスについて語られている言葉、テレフォンセックスについて書かれている言葉は、実際の「テレフォンセックス」の体験とはまったくの別物であり、それらの言葉が「テレフォンセックス」そのものへと到達することはおそらくありません。

では、テレフォンセックスについて書くことや語ること、テレフォンセックスに関して言葉を費やすということが全くの無駄なのか、というと、どうもそうとは言い切れない部分が残るように私には思えます。

むしろ、テレフォンセックスについての言葉が、つねにテレフォンセックスそれ自体と乖離している、ということにこそ、テレフォンセックスについて言葉を費やす意味があるのだ、とさえ言いたくなるほどです。

テレフォンセックスというのは、性的快楽による非連続性を携えた個々人の消失と融合という「不可能」を目指して螺旋状に上昇していきながら、言葉と身体でもって表現されつくされる刺激と快楽の限界の果てで、その「不可能」の淵へとついに手をかける性行為であるわけです。

そんな、テレフォンセックスという語りえぬ体験が最高度に高まる、消失と融合の「不可能」の瞬間におけるまでに、テレフォンセックスプレイヤーが一体何をしているか、というと、実は、「考える」だとか「書く」とか「話す」といった「醒めた知的作業」にほかならないのであって、そこで行われているのは「性的な可能領域」の探索なのです。

お互いの性的興奮を煽るためのテレフォンセックス言語を使い、「書くようにして話す」ために、たえずむきだしの思考を要求され、受話器越しのテレフォンセックスプレイヤーとの性的な対話=テレフォンセックス言語の衝突を繰り広げていく。テレフォンセックス言語の「衝突」を経て、テレフォンセックスプレイヤーの男女は、より強烈な「快楽」の階段を登っていくことになるのです。

テレフォンセックスについての言葉、というのは、テレフォンセックスという体験をより快楽的にするための原動力であるといえるでしょう。そのような見地から、私は、テレフォンセックスについて言葉を費やすという営みに意味を見出すものであります。

テレフォンセックスで思考と言葉を使い果たすために

ところで、快楽が上昇していくなかで、より強い快楽のための高度なテレフォンセックス言語、序盤よりも高度な冷静さと思考能力を保つことが要求されるテレフォンセックスというプレイは、そのエクスタシーの瞬間、テレフォンセックスのために用いていてきたあらゆる「思考」や「言語」を捨て去って手放すこと、「思考」や「言語」などが決して届かない快楽の深海のなかで溺れ死ぬことを目的にしています。

「テレフォンセックス」は、それらを最終的には「すべて捨て去る」ことを目的にして、テレフォンセックスについての言葉を練り上げていく、という逆説的な営みであると言えます。

テレフォンセックスのためには言葉と思考が必要不可欠であるにも関わらず、テレフォンセックスの快楽の頂点においては、快楽のために用意してきたあらゆる言葉や思考を扼殺するようにして捨て去らなければならない。この「捨て去る」ということにこそ、テレフォンセックスの醍醐味があるといえるでしょう。

テレフォンセックスは、「神秘体験」にも比肩される快楽の瞬間に自分自身の言葉や思考を「捨て去る」ことを通して、「性」の「可能領域」を消尽することを要求する性行為であるといえます。テレフォンセックスにおけるひとつのエクスタシーは、「性」における一つの可能性、「性」のために孕ませた思考と言葉を使い果たして、放擲し、遺棄する地点でもあるわけです。

テレフォンセックスが語りえぬ孤独な体験となるのは、神秘体験でもあるテレフォンセックスにおけるエクスタシーが発動される条件が「思考と言葉が放棄されること」であることと強く関係しているでしょう。

テレフォンセックスのエクスタシーという「神秘体験」に向かうまでに、どのような思考がありどのような言語的実践が行われたか、という証言はできても、そのエクスタシーの瞬間、それらの思考や言語がすべて捨て去られてしまう以上、その「瞬間」に訪れる内的な体験については、何をどのようにすれば語ることができるのか、というわけです。

テレフォンセックスについて語る言葉や思考は、「思考や言葉を失うこと」をめぐって過剰に饒舌になるという運命をたどることにもなるでしょう。

ここで、もはや「テレフォンセックス」のために使える言葉は一つもない、「テレフォンセックス」のための思考も言語も使い果たしてしまった、というあらゆる可能性が消尽されつくされた沈黙の地点から、ふたたび「テレフォンセックス」をしなければならない、という「テレフォンセックスのための言葉」のあらたな地平の足音を聞くことにもなるかもしれません。

一回一回のエクスタシーのたびに言葉を打ち捨てていきながら、「性」の「可能領域」の一つ一つを虱潰しに消していく、というプロセスを経験していながらも、「すべての可能性が消尽されつくした」という地点にまでテレフォンセックスのプレイを進行させた、「終わりのテレフォンセックス」に到達してしまったテレフォンセックスプレイヤーは、おそらく、いまのところはまだいないのではないかと思われます。

不眠症が目覚めながら傍らで見る夢というようなテレフォンセックスがどのようなものであるか、という可能性の消尽から始まるテレフォンセックスの地平は私を強く魅惑するものではありますが、まずは、ありあまるほどに残されている「性の可能領域」をマス目を黒く塗りつぶすようにして「テレフォンセックス」によって使い果たし、言語にできない快楽に痙攣しながら沈黙を深めていく経験を重ねていく必要があるでしょう。