テレフォンセックスの涙

テレフォンセックスの涙

テレフォンセックスを通してついにエクスタシーを迎える瞬間、テレフォンセックスという特殊な性行為によってのみ可能な快楽の海のなかに投げ込まれたテレフォンセックスプレイヤーが全身的な恍惚とともに引き受けることになる体験は、ある種の神秘家や宗教家が体験するような「神秘体験」に近づくのかもしれません。

無神論的な「快楽」の貫徹によってその体験の質が「神秘体験」にも接近しうるテレフォンセックス特有の性的な体験は、「宗教」や「信仰」、「神」などといったものを媒介せずにもたらされる、ということにその大きな特徴を持っているといえるでしょう。

テレフォンセックスプレイヤーは、16世紀スペインの女性神秘家であるアビラの聖テレサに匹敵するような体験をする可能性を「テレフォンセックス」によって与えられています。

テレフォンセックスをプレイする男女がその絶頂において感じるのは、自分自身の不連続かつ孤独な個体の「消失」の感覚と、同じく不連続な個体である受話器越しの相手との「融合」の感覚に他なりません。「個体の消失」が「個体の死」である以上、テレフォンセックスとは、たえまなく死へと向かっていく暴力的な運動でもあるでしょう。

その「消失」と「融合」の強烈な感覚は、持続させたり確保できたりするような感覚としてではなく、獲得すると同時に即座に失われていくというような、いわば閃光のような、瞬間的に逃げ去っていく感覚として与えられるものです。

テレフォンセックスのプレイ中、テレフォンセックスプレイヤーの男女が生殖を目的としない性行為を通してお互いに刺激を与えあうときの、受話器越しのやりとりから発生する快楽の運動は、「寄せては返す波」のようなものとしてひとまずは考えられます。

「寄せては返す波」という運動は、寄せる運動と返す運動という二つの性質が異なる「波」がたえまなく衝突し、打ち消しあい、混じりあうことによって、次第にひとつの「波」として「融合」し、「それぞれ」であったときよりも大きな存在として連続性を獲得していく運動として考えることができるでしょう。

「寄せる波」と「返す波」という、それぞれの相反するような「ふたつの波」が、お互いの領域を相互に侵犯しあうような暴力的な運動でもって、「ひとつの波」という「消失」と「融合」の地点に到達する、というような「波」の特徴は、テレフォンセックスをプレイする男女の間で発生する「快楽」の特徴と非常に似ています。

テレフォンセックスをプレイする男女は、はじめは「テレフォンセックスプレイヤーの男性」と「テレフォンセックスプレイヤーの女性」に分かれているのですが、テレフォンセックスという性的生成のプロセスを通して、お互いの領域を「声」と「言葉」で刺激しあいながら侵犯しあうことによって、だんだんと「テレフォンセックスプレイヤーの男/女」という当初の断絶や境目を融解させていきます。

「テレフォンセックスプレイヤーの男/女」は、テレフォンセックスをプレイしてエクスタシーへと向かう過程において、「テレフォンセックスプレイヤーの男/女」から「テレフォンセックスという快楽そのもの」へと次第に変貌していきます。

テレフォンセックスによってエクスタシーに到達する瞬間、テレフォンセックスプレイヤーの男女というのは、それぞれの個体が瓦解してしまうようなギリギリの地点で、「テレフォンセックス」という融合した存在に近づくことになります。「私」が次第に捨て去られていき、「わたしたち=テレフォンセックス」になっていくのですね。

テレフォンセックスは死におけるまで生を称える

しかし「テレフォンセックスプレイヤーの男/女」という個体である以上、不連続な個体の完全なる「消失」と「融合」による「わたしたち=テレフォンセックス」という存在の持続などはおそらくできません。

「テレフォンセックスプレイヤーの男/女」がエクスタシーによって与えられるのは、わずかな瞬間的な「融合」の感覚でしかなく、エクスタシーの波が引いていくにともなって「テレフォンセックス」そのものであった男女は、やがて、また「テレフォンセックスプレイヤーの男/女」という受話器を片手に持った孤独な個体の領域へとそれぞれが戻っていくことになるのです。

テレフォンセックスプレイヤーがテレクラにおけるテレフォンセックスを何度も反復し、エクスタシーを目指しつづけるのは、この「わたしたち=テレフォンセックス」という決して持続させることができない瞬間的な感覚を獲得することによって、不連続な個体であり、あらゆるものから断絶されている孤独の恐怖から逃れて、いっときの連続性を得るためであると言えるでしょう。

「私」と「私」というそれぞれのテレフォンセックスプレイヤーの「孤独」が、寄せては返す「私」同士の衝突と侵犯によってその「私」としての輪郭を融解させ、ついに「わたしたち=テレフォンセックス」というエクスタシーに到達する「融合」の瞬間は、しかし、皮肉ながら、それぞれの「私」という孤独で内的な空間でしか起こりえない感覚でもあるわけです。

「わたしたち=テレフォンセックス」の瞬間こそは、自己の限界を打ち破りその奥へと足をすすめるようでもあるのですが、テレフォンセックスをプレイするということは、「私」という内的な空間における特殊で強烈な体験を、他者に語ることができない体験として自分のなかに積み重ねていく行為であるともいえるわけで、テレフォンセックスプレイヤーは「わたしたち=テレフォンセックス」という瞬間的な「融合」を体験すればするほどに、どんどん「孤独」を深めていくのだとも言えます。

その深まった「孤独」は、やはり、「わたしたち=テレフォンセックス」のあの強烈な瞬間を求めることによってしか癒やされることがありません。こうして、「テレフォンセックス」は、ただただ「私」であるという孤独への恐怖と、「わたしたち」であることの安堵と不可能性への挑戦によって、そのプレイ内容を過激化させていくのですし、テレフォンセックスプレイヤーをますます「テレフォンセックス」という固体の死を目指す運動に邁進させることにもなります。

「個体の死」をもとめつづけて「消失」のゼロ地点と全的合一の「融合」を目指す「テレフォンセックス」は、束の間の「生」を獲得していく切実な欲求として考えられるべきでしょう。「テレフォンセックス」を通して行われているのは、「死」に向かう運動による「生」の称賛でもあるのです。