テレフォンセックス言文一致運動②―根源の彼方に―

テレフォンセックス言文一致運動②―根源の彼方に―

さて、テレフォンセックス言文一致運動についての続きです。面倒に思われるかもしれませんが、以前の記事を参照していただければ幸いです。

テレフォンセックス言文一致運動①
「テレフォンセックス言文一致運動」の可能性について考えていました。 「テレフォンセックス」と「言文一致運動」というものの組み合わせについて考えていく上で、まず最初にアイデアとして出てくるのは「テレフォンセックスに興じる男女の音源をそのままテキスト起こしする」という方法になるのかもしれません。しかし、この安直な方法によって生み出されるテキストによっては、おそらく「テレフォンセックス言文一致運動」と呼べる運動が始まることはまずないのではないか、と思われます。「文語体から口語体への移行」を目的としていた、明治時代の本来の「言文一致運動」の見地からしても、そのように思われます。

・「テレフォンセックス言文一致運動」というものについて考え始めてみたが、そもそも「テレフォンセックス」においては「文語体」にあたるものが存在しない以上、「テレフォンセックス言文一致運動」は発生しないのかもしれない。

・「テレフォンセックス言文一致運動」について考え始める前に、まずは「テレフォンセックス/セックス一致運動」について考え始めなければならない。そこから「テレフォンセックス言文一致運動」の可能性が浮上するのではないか。

・「セックスの再現」を目的にしておこなわれる「テレフォンセックス」が、いわゆる「テレフォンセックス/セックス一致運動」である。

・しかし、「テレフォンセックス/セックス一致運動」が目指す「テレフォンセックス」は、「セックスの再現」という出発地点の誤りによって「テレフォンセックス」として失敗しており、その可能性を剥奪されて閉ざされているのではないか。

・「セックスの再現のためのテレフォンセックス」ではなく、「テレフォンセックスのためのテレフォンセックス」をする必要があるのだが、そこにおいては「書き言葉」を「テレフォンセックス」に導入するという方法が考えられるのではないか、そして、そこから「テレフォンセックス言文一致運動」が始まるのではないか。

というのが、前回の記事の要約となります。

「セックスの再現」のためではない「テレフォンセックス」

ここまで考えてきますと、「『テレフォンセックスのように書く』ことによってテキストを創出する」ということから考え始めたことが、そもそも、「テレフォンセックス言文一致運動」という言葉から導き出された「最初の思考」の失敗の原因だった、ということがようやくわかってくるわけです。

すると、「テレフォンセックスのように書く」のではなく、「書くようにしてテレフォンセックスをする」ことによって「テレフォンセックスの創出」がなされ、「書かれた言葉」と「話された言葉」の衝突が「テレフォンセックス」の空間内に生じ、その異なる言葉がぶつかりあう地点から「テレフォンセックス言文一致運動」と呼べる営みがついに開始されることになるのではないか、という構図が見えてきます。

セックスには不要な「書き言葉」を導入して「喋り言葉」を揺さぶり、「テレフォンセックスのための文語体」ともいえる特殊言語を作りあげ、その言葉を使って「テレフォンセックス」を遂行していく、というのが、おそらく「テレフォンセックス言文一致運動」というものの出発点になるでしょう。

そうなると、「テレフォンセックス言文一致運動」においては、おもしろいことに、明治時代に起こった「言文一致運動」とはどうやら逆のルートをたどることになるようなのです。

「書かれた言葉」を導入し、「書くようにしてテレフォンセックスをする」とき、そこで創出される「テレフォンセックス」の「話し言葉」は、どんどん「セックス」からは離れていくことになるでしょう。

「セックス」から離れていき、「テレフォンセックス」の可能性の中心へと近づいていく「話し言葉」、「テレフォンセックスのための文語体」ともよべるフォルムを与えられたうえで発話される特殊かつ自然ではない「話し言葉」を、私は「テレフォンセックス言語」と呼んでみたいと考えております。

「書くようにしてテレフォンセックスを行う」ということは、「テレフォンセックス言語」を生々しい生成の過程のなかで開発していく、ということであり、「書き言葉」を「話し言葉」に導入するにあたって「感触」として与えられる「ごつごつとした違和感」に満ちた「テレフォンセックス言語」でもって、「テレフォンセックス」としか呼べない空間を瞬間ごとに立ち上げていく、ということです。

これは、「テレフォンセックス/セックス一致運動」が目指す「セックスの再現のためのテレフォンセックス」を、「テレフォンセックスのためのテレフォンセックス」によって解体するということでもあって、「セックスの再現のためのテレフォンセックス」の安直さから脱出しながら、「テレフォンセックス」の新たなフォルムを構築しなおす、という営みなのです。

「テレフォンセックス言語」という「性のための文語体」の導入による「性のための新たな口語体」の創出こそが、「テレフォンセックス言文一致運動」が目的とするものです。

「テレフォンセックス言文一致運動」によって解体され、新たに構築される「書くようにして行われるテレフォンセックス」、「異化された喋り言葉によるテレフォンセックス」によって、「テレフォンセックス」がなまなましく生成される時間のなかで飛び交う「性のための新たな口語体」を、さらに改めて「書こう」とする「テクスト化への欲望」が発動されるにあたって、はじめて、一度は見捨てられた「テレフォンセックスのように書く」という命題がふたたび重要なものとして浮かび上がってきます。

テレフォンセックス・グラマトロジーへむかって

「『書くようにして行われたテレフォンセックス』のようにして書かれた言葉」という入り組んだ状態のテクストが、「書き言葉」の地平においてどのような形をとるかについての考察などを開始するためには、「テレフォンセックス/セックス一致運動」による「セックスの再現のためのテレフォンセックス」が「テレフォンセックスのためのテレフォンセックス」によって解体されながら構築される瞬間をまずは待たなければなりません。

「セックスの再現のためのテレフォンセックス」の、「テレフォンセックス」としての未熟さや退屈さなどが乗り越えられ、ひとりひとりのテレフォンセックスプレイヤーがみずからの「テレフォンセックスのための文語体=テレフォンセックス言語」を獲得し、「テレフォンセックス」の可能性を切り開いて「セックス」から遠退いていくとき、そして、その「テレフォンセックス」があらためて「テクストとして書かれる」とき、「テレフォンセックス言文一致運動」という運動がどれほどの射程を持ちうるかがはじめて明らかになることでしょう。

その射程について考えていくと、どうも、「書くようなテレフォンセックスによって生成されたテレフォンセックス、そのテレフォンセックスのように書くことによって創出されるテキスト、その創出されたテキストのように行われるテレフォンセックス……」という差延の追求に終わりはないのではないか、と思われてきます。

テレフォンセックスというものは、「セックス/テレフォンセックス」という「ズレ」、そして「話し言葉/書き言葉」という「ズレ」が内在された行為であり、その「ズレ」の「音」を「みずから話しながら聞く(決して一致することはない)」という状態が延々と続く「終わらない性行為」なのであります。

「テレフォンセックス言文一致運動」は、「テレフォンセックスにおける『言/文』の永遠の不一致を痛感するために、まずはテレフォンセックスの『言/文』の一致の可能性を探求しながら、その決して埋まることがない『ズレ』の感触から快楽を得ていく」という「言文不一致」のテレフォンセックスへと次第に「ズレ」ていくようにも思われます。

こうして、私の「テレフォンセックス言文一致運動」という出発点から考え始めた思考が、気がつくと「テレフォンセックス・グラマトロジー」の領域へと次第に「ズレ」はじめていることにも驚かされます。

「テレフォンセックスについての思考」と「テレフォンセックスについてのテクスト」も、「テレフォンセックス」が内包する「ズレ」と決して無関係ではいられないのかもしれません。