恐山のテレフォンセックス狂

恐山のテレフォンセックス狂

「声」と「言葉」でもって遂行する特殊な性行為であり、「演技」の要素が切り離せないテレフォンセックス対しては、「憑依型テレフォンセックス」という一つの構図がみえてくるようにも思うのです。

とはいえ、「憑依型テレフォンセックス」で使われている「憑依」という言葉は、いわゆる「憑依型俳優」という言葉で使われている「憑依」とはやや違います。

テレフォンセックスで使用されることになる言語は、日常会話で使用されているような言語のコードからはやや外れている「テレフォンセックス言語」としかいいようがない異質の言語です。

路上や、カフェなどにいるときに、テレフォンセックスをプレイしているときのような言葉を使って喋っている人たちを見たことがあるか、ということを考えれば、「テレフォンセックス言語」というものがいかに異質であるかがわかっていただけると思います。

「テレフォンセックス言語」でもって喋りながら人々の日常に侵入することがもしあるとしたならば、その人は、日常を脅かす異形の者に向けられる眼差しを浴びることになるでしょう。

もちろん、私は、街中で「テレフォンセックス言語」で唐突に喋りだし異質の言語を街中に放り込むようなテレフォンセックスのプレイヤーがいてもいいと思っていますが、これはひとまず置いておきましょう。

街中の例でも明らかなように、「テレフォンセックスをプレイする」ということは、そのまま「テレフォンセックス言語を通して自分を異質な存在へと変化させていくプロセスの総体である」とひとまず言うことができるのではないかと思います。

テレフォンセックスをプレイするにあたって、テレフォンセックスのプレイヤーがみずからの身体に「憑依」させているのは、「特定の役」ではなくて、「テレフォンセックスのための言語」に他なりません。

プレイの濃厚さや趣味嗜好などに程度の差はあれど、テレフォンセックスをプレイするとき、すべてのテレフォンセックスプレイヤーは「テレフォンセックスをプレイする人間」が使う言語のルールを「憑依」させることによって、「テレフォンセックスをプレイする人間になる」のです。

テレフォンセックス言語に取り憑かれて

「憑依型テレフォンセックス」という造語における「憑依」を、「憑依型俳優」における「憑依」と混同することを避けるためにも、「憑依型テレフォンセックス」という見取り図に対しては、「テレフォンセックスとはそもそも憑依なしには成立しない性行為である」という補足をいれたほうがいいのかもしれません。

イメージプレイを導入したテレフォンセックスで例えると、この「憑依」のそれぞれの違いが見えてくるのではないかと思います。

イメージプレイに属するようなテレフォンセックスというのは、「役」を演じるという土台の上で、さらにテレフォンセックス言語をみずからの身体に「憑依」させる、という二重のプロセスをとります。

この場合、このテレフォンセックスプレイヤーは「憑依型俳優」として演じはじめてキャラクター化したみずからの身体に、さらに「テレフォンセックス言語」を「憑依」させている、というわけです。

しかし、イメージプレイのようなプレイスタイルにおいても、テレフォンセックスの快楽を追求する限りにおいて、最終的には「テレフォンセックス言語」の「憑依」が優位に立ちます。

「憑依型俳優」のロールプレイは、快楽が高まっていくにつれてテレフォンセックスを煽り立てる「テレフォンセックス言語」の波に飲まれてゆき、作り上げられたキャラクターはゆるやかに崩壊をはじめ、やがて「テレフォンセックス言語」の完全なる「憑依」に全身が支配されることになるでしょう。

テレフォンセックスのプレイ中だけ電話回線を通して男女の肉体の上に降臨し「憑依」する「テレフォンセックス言語」は、テレフォンセックスのみで得ることができる途方もない快楽を与えることだけを目的にしており、プレイ後は「つきものがとれた」ように消え去ってしまう言葉の精霊であり、言霊なのです。